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bohemian's scrapbook

Sunset Cruisin'

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西へと傾く太陽が
一日の終わりを告げようとしている
遠く煌めく水平線から
ルーフを開け放った300ZXのダッシュボードまで
すべてが金色に染まる黄昏時の光の中を
些末な日常を置き去りにして走るGolden coast drive

束の間の自由の時
数ある選択肢の中から
ステアリングを握りアクセルを踏むという
2つのカードを迷わず選んだ
やがて切り札が集められ
ざわついた日常がまたやって来るその時まで
漆黒の闇夜へと移ろいながら
海岸線はまだ終わらない

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(ロケ地:日 本 海
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  1. 2007/05/07(月) 15:08:52|

言葉は、無力になる

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1台目のZ32に乗っていた頃の話。

 横田の米軍基地沿いを走っていた。
 陽が落ちる少し前の時間で、バックミラーに写る空は少しだけオレンジがかっていた。ベース沿いの国道は混んでいて、流れたりノロノロペースになったりを繰り返していたが、やがて僕の居る左車線はついにストップしてしまった。
 外の空気を吸おうとパワーウインドウのスイッチを押したとき、かろうじて歩くような速度で流れている右車線の車列の中に、やや異彩を放つクルマをドアミラー越しに見つけた。赤いZ32だ。自分のクルマと同じ車種は、やはり気になるものだ。前後の車列から少しはみ出した大きなボディ。ベターッと平ベったい顔に、眠そうな目つきであたりをヤブ睨みするようなヘッドライトの表情。ドロドロと低く咽をならすような音。こういう時のZ32は、精悍なスポーツカーのオーラをひそめ、まるで人なつこい大型犬のような愛嬌すら感じさせる。思わず「おやおや、どうした?」と話し掛けたくなってしまう感じだ(僕だけかもしれないが)。多分、リトラクタブルでない固定式のヘッドライトと、鼻の頭を思わせる丸いZマークが「顔」をイメージさせ感情移入を促すのだろう。

 やがて赤いZが僕の白いZに並んだ。
 向こうは窓全開、Tバールーフも外してオープンカー状態。ドライバーは体格のいい黒人だ。真っ黒なサングラス、胸元には幾重にも掛けたネックレス。パイロットだろうか、間違い無くベースの住人だろう。隣には恋人か奥さんであろう女性を乗せている。Yナンバーだったが右ハンドルの国内仕様車だ。
 彼も僕のZを見ていた。そしてふいに僕と目が合うと、長い腕を助手席越しに突き出して来て、親指を立てて叫んだ。

「Yeahhhhh!」

 黒い顔から真っ白な歯を見せて、子供のような満面の笑顔で笑っている彼。
 こちらも負けじとサムアップして、叫び返した。

「ィイェーイ!!」

 まるで映画のようなひとときだった。
 クルマに興味のない人には何の事だか理解できないだろうと思うが、彼はきっとZが大好きで、同じZが隣に並んだ事がとてもハッピーだったのだ。そして僕もまったく同じ気持ちだった。

 英語がもっとできれば即座に「あんたのZは最高にイカスぜ」とか言ってやるのに、と一瞬思ったが、考えてみたら言葉なんかいらなかったのだ。

 Zがあれば、ゴキゲン。Zがあれば解りあえる。

 国境を超えて世界中で愛されて来たZというクルマならではの特権。Zに乗っていてよかった、と思えた最高の出来事。実はその頃、手間と金のかかるZに疲れはじめていて、もう手放してしまおうかと思ったりしていたのだが、ゆっくりと去って行く赤いYナンバーのZの後姿を見送りながら、これからもずっとZに乗って行こう、と思った。

 こんな事もあった。
 初夏の伊豆をZで旅していた。天気は最高に良く、午前中で時間はたっぷりあった。実は道に迷っていたのだが、
「まあいいか、どんなに迷ったってアメリカに行っちゃうわけじゃなし」
と、わけがわからないまま何も考えずに走りまわっていた。物の考え方すら、まるでZのように大雑把になっていたのだ。
 木漏れ日降り注ぐワインディングを気持ちよく走っていると、左からの道と合流する変型Y字路にさしかかった。立ち木に遮られてよく見えなかったのだが、その左の道から白いクラウンが出てくるところだった。
「おっと」
とっさに僕はZを停止させた。状況的にはこちらが優先のはずだが、さて…なんて考えている間、クラウンのドライバーである50代くらいの男性は、ぽかんと呆気にとられたような表情でこちらを見ていたが、すぐに会釈して、ハンドサインで「どうぞ」と道をこちらに譲ってくれた。
 ところで、目があった瞬間に、彼がなにか言ってたように見えたのだが…

ぜ っ と だ …、って言ってたのよ、あの口の動き」

 助手席の同乗者はそう言って笑った。

 出合い頭に目に飛び込んで来るような状況で、名前を呼ばれてしまうクルマはそう多くはないだろう。彼にしてみれば、クルマにぶつかりそうになったというより、山道でイノシシかなにかに出くわしたとか、それに近い感覚だったのではないだろうか?きっとドライバーである僕より先に、Zと目が合ってしまったのだろう。

 Zって何だろう。
 スポーツカーとして考えると、特別に速いわけでもなく、際立って扱いやすいわけでもない。かといって乗用車なみに快適かというとそうでもない。むしろ機械として割り切って判断しようとすると非常に曖昧でわかりづらいクルマである。それはきっと、Zがライバルとの競合のなかで、数字を争うだけの進化をせず、抽象的でつかみどころのない「Zらしさ」を良くも悪くも暖め続けたからではないか。広大なアメリカ大陸で、燦々と照りつける陽射しを浴びてのびのびと育った、大雑把でちょっと呑気なスポーツカー。フェラーリのように官能的でもなければロータスのように俊敏でもないけれど、ハンドルを握るたびに、こ難しい事や面倒な事を忘れさせてくれる大らかな走り。そして、どこから見てもスポーツカー然としたスタイルなのに、高性能車にありがちな物欲しそうな感じがあまりない。むしろ余裕綽々というか、見てるこっちが心配になってしまうくらい穏やかな表情をしている。これはどの年式のZにも、ちゃんと「目(ヘッドライト)」があるからだろう。実はZ32の開発段階で、空力のためにフルリトラクタブル化のプランも出たらしいのだが、「顔に目のないクルマはZではない」として、巨額の開発費を投じて、空力と「顔つき」を両立した特別に平ベったい固定式ヘッドライトが与えられたのだという。「Zらしさ」を何よりも大切にしてくれたデザイナーさん達に、心から感謝したい。
 わかりづらいと前述したが、機械という枠にあてはめようとせずにZとはどんなクルマかを見て行くと、「誰が見てもスポーツカーとわかるスタイル」「顔や目があり感情移入しやすい」「豪快で大らか、かつ適度にシャープな気持ちいい乗り味」「高い認知度、長い歴史」といった、とてもわかりやすい部分が見えてくる。それらをひっくるめたものがZの世界観、メーカーである日産自動車が言う所の「Zネス」なのだろう。難しい説明や数字はそこにはいらない。日産自身も、新しいZの広告でこう言っている。

「言葉は、無力になる。」


 結局、その時乗っていたZは後に手放してしまった。
 だがどうした事か、僕の駐車場には、相変わらず平べったい顔で眠そうな目つきの白い「大型犬」が、腹を空かしてドロドロと咽を鳴らしているのである。

 さて、今度の週末も散歩に連れ出してやるか。
  1. 2007/03/21(水) 06:33:20|

925

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 文房具が好きだ。

 子供の頃から絵を描いたり文章を書いたりするのが好きだったので、筆記用具を中心に文房具は身近な存在である。
 現在の仕事は、かつてはまるで文房具屋の上得意様のような職業であったが、今はパソコンがあればまあ、概ね何とかなってしまう。それでも手仕事のために必要な道具は、気に入ったものを探し、愛着をもって使っている。

 ドイツ・ステッドラー社製の、「925」という製図用シャープペンシルがある。太さ0.3mm~2.0mmまでのシリーズになっていて、軸とノック頭がアルミ挽物、ペン先が真鍮にクロームメッキの全金属製。軸と同径のグリップ部は滑り止めローレット加工入りの別パーツになっている。仕上げ色は銀のアルマイト仕上げ(型番925 25)と黒塗装(型番925 35)の2種類がある。各パーツの精緻な納まりは旧き良きメイド・イン・ジャーマニーを感じさせ、飾り気一切ナシのシンプルでソリッド感あふれるデザインはまさに「シャープ」ペンシルそのもの、といった感じの精悍さあふれる逸品。いや、精悍さを通り越して殺伐とした雰囲気すら漂う。こいつはシャープペンシル界のハードボイルドだ。うっかりラブレターなど書こうものなら、

「ジェーンへ
 第三埠頭にて待つ
        ボギー」

などと書いてしまいそうで危なくて仕方が無い。

 僕はこの「925」が大好きで、もう15年以上愛用している。最初は大学で製図を学ぶために買ったのだが、すっかり気に入ってしまい今では手放せなくなってしまった。職場では銀の0.5mmを一般筆記用、2.0mmをラフスケッチ用に。家では黒の0.5mmと銀の0.3mmを趣味で描いているイラストの下書き用等に使っている。たいして高価なものではないのだが、どこかに置き忘れたりすると気になって、けっこう真剣に探してしまう。
 一番のお気に入りは、職場用の銀の0.5mm。現在の会社に入った時に買い足したもので7年ほど愛用している。銀アルマイトの軸はマット仕上げの表面が磨耗して鈍い光沢を帯び、軸とグリップ部の間に挿入されている、芯の硬度を表示させる穴の空いたクロームメッキパーツには無数のキズがつき、黄色いジンクロコートとその下の真鍮地肌が露出している。黒の0.5mmも良い。こちらは学生時代から使っているものの現在は使用頻度が低い。それでも黒い塗装の角がはげて真鍮やアルミの地金が顔を出し、使い込まれた風合いが味わい深い。
 縁起でもない話で恐縮だが、もし僕が冥土へ発つ時は、この「925」を棺に入れて欲しい。

 一方、それとは違う方向性で、好きな文房具がある。
 OHTO社製の「ガチャック」という製品。ご存じの方も多いと思うが、束ねた紙をホチキスを使わずに留める道具で、ちょうどホチキスくらいの大きさの本体に小さな金属製のクリップを装填し、本体端の開口部に束ねた紙をあてがい親指でレバーをスライドさせると、クリップが押し出されて紙にセットされる仕組み。
 これのどこが好きなのかというと、仕組みや使い方が何となく拳銃を連想させ、モデルガンのような楽しさを感じさせてくれるからである。もしやこれを開発した人はガンマニアではないだろうか(もし違っていたらゴメンなさい)。そのくらい似ている。
 まず第一に、本体に金属製のクリップを装填する行為。これはまさに拳銃のマガジンにカートリッジを1発づつ込めるやり方そのもの。そしてそのクリップの正式名称が「ガチャ玉」。メーカー自らそれを「タマ」だと認めているのである。しかもこのガチャ玉を数える単位は個ではなく「発」。むしろ「ガチャ」と命名したいのをグッとこらえた中期決算的妥協に熱き同情を禁じ得ない。また、レバーをはじくようにスライドさせるアクションもいかにも「ハジキ」という感じで、ここでも銃器との密接な関わりを感じさせる背徳の香りがただよう。
 ガチャ玉には小・中・大の3種類がある。「小」は幅13mm、「中」はもっともポピュラーなもので幅16mm、そして「大」は堂々の18mm幅、さしずめ「アフリカ像もイチコロだぜ」とダーティーハリー気分が満喫できる44マグナムといったところだろうか。
 さらに驚いた事に、新製品「カートリッジガチャック」では、本体に直接弾、いや玉を込める原始的な方式から、ガチャ玉が複数装填されたマガジンを本体に叩き込む方式に進化している。もはや拳銃そのもの。闘うビジネスマンのための「非情のパスポート」。弾が飛ばないのが不思議に思えるほどの銃器テイストだ。そして、なんといっても最高なのが、

カ-トリッジ式で、簡単に8発+2発のガチャ玉を装填!!
(メーカーサイトの解説より)

 おそるべき事に、マガジンに8発+チャンバー部に2発というコンバットロードが可能なのである。いつでもいいぜ、という感じだ。こんなヤバい代物、文房具屋で売ってて大丈夫なのか!

 書いていていささか興奮してきてしまったが、ここで敢えて苦言を呈する事にしよう。このガチャック、残念なのは肝心の本体が凡庸なプラスチック製で質感のかけらもない事。せっかく「世界一ハードボイルドな文房具」になりうる可能性を秘めているのに(いや、僕が勝手にそう思っているだけなのだが)、これでは魅力半減である。ここはひとつ、先述の「925」を見習って非情なまでに精悍で銃器感あふれる全金属製で、警視庁から販売禁止を命ぜられるくらい危険な香りのする新型ガチャックを開発し、歴史に名を残してほしい。何なら僕がデザインしてもいい。
 そしてCMはこうだ。
 黒いスーツにトレンチコートを羽織り、黒革の手袋をはめた渡哲也。右手には全金属製ガチャック。

「自分は、総務部庶務二課一般申請書類管理係長の大門だ」
「自分の書類は、自分が留めます」
苦みばしった表情で黙々と書類を留める大門…

 これだ。これしかない。こんなCMされたら僕なら絶対買う。
 ああもうだめだ、妄想が止まらない…。

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  1. 2007/02/16(金) 12:50:00|
  2. etc.

言葉のヨロコビ

 コンビニの店内で、20歳過ぎくらいの若い男が携帯電話で大声で話し続けていた。
 その行為自体にも迷惑で腹がたったが、もっと残念だったのは会話の内容であった。こちらの意志に関わらず、声が大きいから聞こえてしまうのだが…

「てかマジ?最強やっべえじゃん」
「意味わかんね、訳ありえねえ」
「ああ? てか…ちっげえよ、てかマジ?最強…(以下繰り返し)」

…。

 そういえば以前職場に新卒で入ってきたデザイナーは、こちらの問いかけに対して、

1.「マジっすか」 2.「すげえっすよ」 3.「やべえっすよ」

 上記の3つの言葉をランダムに組み合わせるだけでほとんどの応答をしていた。2年ほどで辞めていったが、「表現を金に換える」この職業でちゃんとやっていけるのだろうかと余計な心配を禁じ得ない。

 このような状態を一般に「語彙が貧弱」と言うわけだが、映像などの情報伝達手段が発達し、言葉から立体的な情報への脳内変換(またはその逆)を人間自らする機会が減ってきた事もこういった傾向に拍車をかける一因だろうと想像はつく。このままで行くと、いつか人間の言葉も動物のそれのように、単なる信号としての意味しか持たなくなってしまうのではないかと思ってしまう。

 学校の先生みたいな事を言うつもりはないが、これではせっかくの日本語がもったいないなあ、と思う。

 英会話の教本なんかをナナメ読みするたびに思うのだが、アルファベット26文字しかない英語ですら習得するのは容易ではないのに、もし今から学ぼうとするのが日本語だったらと思うと難しすぎて卒倒しそうだ。だが幸運な事に我々日本人は、この難解きわまりない極東の特殊言語を自在に操るスキルを空気のように当たり前に身につけているのだ。こんなプログレッシブかつハイベロシティな楽しいオモチャで遊ばない手はないし、危険な飛び道具として活用しない手はない。

 ある時、一つしかないトイレの優先順位をめぐって友人と争った事があった。
私「お先に失礼」
友「ちょっと待ってくれ、俺のほうがヤバイ!先に行かせてくれ」
そこで咄嗟に出た一言。
私「いやもうのっぴきならない状況なんだよ!」

友「…何だかわからないが、お先にどうぞ…」

 言葉の正否はともかく、いかに逼迫した状況であるかを端的に言い表せる言葉はないか、と反射的に脳内の引き出しを引っかき回したあげくに出てきたこの一言が私を救ったのだ。これは、日頃のムダとも思える言葉遊び癖が最終兵器として機能した好例であると言えよう。


 一方、本人の意思とは無関係に、言葉の持つ味わいがもたらしたこんな一件もあった。
 学生時代、友人S氏が大幅に遅刻して昼ごろ登校してきた。

S氏「いやー、朝地元の駅で気持ち悪くなっちゃってさー」
 それを周囲の仲間がからかい半分に「軟弱者め」「甘いな」などと好き勝手に非難していると、S氏が大声で叫んだ。
S氏「お、お前らなあ、俺が今朝どんなに気持ち悪かったかわからないだろ!
20年間生きてきて、あんな気持ちになったのは生まれて初めてだったんだよ!

 …初恋の少年かよ!
 言ってしまえば単なる言葉の間違いなのだが、その間違いで飛び出した言葉があまりに情感たっぷりであったために、強力な笑いの起爆剤となったのだ。

 情感といえば、最後にもうひとつ。
 上野の昭和通り添いにあった「バイク街」を歩いていると、黒塗りの街宣車がゆっくり走っていた。窓に張られた金網ごしに中年の活動員がマイクを握って生演説しているのが見えた。

 そこへ、当時流行りだった国産アメリカンチョッパー軍団が現れ、全員「万歳したカニ」のような乗車姿勢でドイツ軍のヘルメットを被り、
「スドバルルルーン!パッパラパー(吹き戻り音)」
と、明らかに本場ハーレーのそれではない締まらない吹かし騒音をたてながら街宣車に追いついた。

 するとその活動員氏、台本読み上げ調の演説を中断し、その「カニ万歳ドイツ軍」に向かって叫んだ。

「貴様等のようなー、若い身空でー、
 鬼畜米英にー、魂を売り渡したー、
 国賊があー! 馬鹿面さげてー、

   この 寒空に…

 と、文末に倒置法を用いて妙に味わい深い自由律詩のような怒声を飛ばしはじめた。
 率直に言って可笑しかったが、「さむぞらに…」の部分に、彼なりに國を憂う気持ちが伝わってくるような(いやそれは気のせいかもしれないが)、粗暴さのなかにもささやかな文学性を感じさせる不思議な怒声だった。
 活動員氏をのせた街宣車は、その後も傍若無人なチョッパー集団に、
「こら貴様等じゃかあしいんじゃワレ! 寒空に…
「踏みつぶされたいんかこのクソガキが! 寒空に…
などとやたらに「寒空に…」を末尾につけながら味わい深く怒鳴り狂い、草加方面へと走り去っていった。単なる口癖だったらしい。


 こんな事を思い出したのは、ある友人と交わした携帯メールがきっかけだった。
私「仕事で疲れた日の、寝るまえの一杯は美味いよな」
友「一杯っていうか、イッパイだね」

 なるほど、漢字で「一杯」と書くより、「イッパイ」と書くほうが、冷えたビールひと口目のあのヨロコビを上手く表現できてるな、楽しい言葉の使い方だな、と感心したのだ。(後で確認したところ、一杯だけじゃなくて「いーっぱい(たくさん)」という意味もあったらしいのだが・笑)
ちなみにその友人、冒頭の語彙貧弱青年達と大差ない年頃の女性なのだが、こういう感性を失わずにいて欲しいと思う。



 必ずしも日本語として正確でなくてもかまわない。
100あるはずの言葉を「ヤバい」の一言で言い捨ててしまうより、
「ヤバイ」の一言で済む事柄でも、100ある言葉から自分だけの表現を見つけて伝えていけたら、と思う。
  1. 2007/01/27(土) 02:18:58|
  2. etc.

Le masque de fer(フランス,1962)

 誰かに似ていると言われた経験はないだろうか。

 よくあるのが、タレントやスポーツ選手等の有名人に似ているというパターン。この場合、美男美女の人気タレントだったりすれば、まあ悪い気はしないだろう。

「○○クンってキムタクに似てない?」と言われれば、

「あ、そう?ふーん…」などとスカしつつも内心、
「うーむ、いよいよ俺の時代が来たな」と早合点してその日から髪を伸ばしちゃうかもしれないし、

「○○ちゃんって、エビちゃんソックリだよね」と言われれば、
「え~そんな何言ってんの全然~」
などとテレつつも、うれしさのあまり彼の言う「エビちゃん」が海老一染之助かもしれない事にはまったく気づかない、などという事態も考えられよう。もちろんキムタクやエビちゃんが嫌いなら話は別だが。

 そういう感じで、芸能人やスポーツ選手に似ていると言われる事が僕にも無いわけではない。言われて嬉しい事もあれば嬉しくない事もあるし、どうにも困る事もある。

 10年ほど前には、取引先のデザイン事務所の社長から、当時バカ売れしていた音楽プロデューサー(金太郎飴のごとく同じような曲やアーティストを量産しまくって不毛の90年代を駆け抜けたアノ人だ)に似ていると言われ、その事務所に行くたびに「○○○クン」(そのプロデューサーの姓)と呼ばれた。正直嬉しくなかった。売れてはいたが決してカッコいいとは思えなかったからだ。しかし何故かその社長が常に嬉しそうにそう呼ぶので、言われるがままにしていた。
 大学時代には剣道部の先輩から、あるボクシングの選手に似ていると言われ、やはりその選手の姓で呼ばれた。困ったのは、言われている自分自身がその選手をまったく知らなかった事だ。
 最近よく似ていると言われるのは、とある邦楽グループのボーカル。コンスタントに売れていて、何度もドラマやCMの主題歌になっているので知ってはいたが、普段TVをほとんど見ないのでどんな顔なのかまったく知らず、言われても曖昧な返事しか出来なかった。しかし世の中便利になったモノで、Googleイメージ検索をかけたらわんさか出てきた。うーん。とりあえずアーティスト当人のほうが僕よりはるかに男前なのは間違いないが、正直似ているのか似てないのかよくわからなかった。とはいえ、「似ている」と言っている側に悪意はなさそうなので、今後も曖昧にうなずく事にしよう。

 このように、似ていると言われても当人としては「???」という事が多いのだが、今までに2つほど、似ていると言われて内心嬉しかった事例があった。それはまあ自分の胸にしまっておこうと思う。酔った弾みにポロっと漏らすネタとして温めておく事にしよう。

 もうひとつありがちな事例としては「動物に似ている」というパターン。この場合は、見た目だけでなく、仕草や性格も含めての指摘である事が多く、わかりやすいし客観的にみていて面白い事が多い。僕の場合は、性格も含め「猫」と指摘される事が多い(注1)のだが、変わった所では「ペンギン」に似ていると言われた事もある。当時は何となく気に入っていたのだが、今にして思えば「そんな事でいいのか?」と、当時の自分に言いたい。

注1:「猫」…勝手気ままで子供っぽいという事だろうか? 否定はできないが、いい歳してちょっとモンダイなのでは(笑)

 話は変わって。 
 大学時代のある日、昼休みの学食テラスで友人J氏とブ厚い中古車情報誌「カーセンサー」を見ながら、お互いの欲しい車について熱心に語り合っていた。アウトドア好きのJ氏は、軽ワンボックスをけっこう現実的に探していた。僕は、とても車を買う金など無いと思いつつも、好きな車はこんなヤツだとZ31フェアレディZやランサーターボなど80年代のスポーツカーやセダンを無数の中古車写真の中から探し出し、まるで次々自分の物にするかのように夢心地で指さした。このように「カーセンサー」という雑誌は、単なる実用的な中古車情報誌というだけでなく、若く貧しいカーマニアにとっては想像力と妄想を戦略的に組み合わせる事で絶大な威力を発揮するハイコストパフォーマンスなアミューズメントソリューションだったのである。

「あ、コレも大好きだな」
と僕は言い、その車の写真を指さした。それは、

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DR30スカイラインRSターボ、通称「鉄仮面」。日産が好きで、日産と関わりのある会社でバイトまでしていた僕にとっては、Z31フェアレディZとならんで憧れの車だった。

 すると、
「ウッヒャッヒャッヒャ!」
 なぜかJ氏は突然笑い出した。
「あのさ、この車、何か顔とかお前に似てない?ウッヒャッヒャッ、ダメだウッヒャッヒャ!」

 彼はそうやって言葉にしてしまった事でさらに自分的に面白くなってしまったらしく、涙を流しながら笑い続けた。

 それまで誰かに似ていると言われる事はあったが、まさかスカイラインに似ているなどと言われるとは夢にも思っていなかったので、ただ呆気にとられるしか無かった…。
 もともと人間っぽい雰囲気のあるVWビートルやミニならわかるが、DR30スカイラインは異形角形ヘッドライトにグリルレスの典型的な無機質顔である。自然界のどこを探してもこんなカタチの生き物はいまい。言いたい事は何となくわからないでもなかったが、失礼を通り越して、J氏の感性にはただただ脱帽であった。

 あれから15年近く経つが、無論、これ以上強烈なものに似ているといわれた経験はない。
  1. 2006/12/27(水) 01:58:09|
  2. etc.

試験に出ない現代用語

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 耳にした単語の語感から、本来の意味とまったく違ったものを想像してしまう事はないだろうか。少し古い話だが、ニュースでIT企業による敵対買収劇が話題になっていた頃頻繁に登場した「ホワイトナイト」という用語、最初に聞いた時は「何だよ囲碁の次はチェスブームか?」などとトンチンカンな連想をしてしまった。

 こういった用語に関して、自分の場合ちょっと変わった癖がある。唐突だが、何故か「バンドの名前」をイメージしてしまうのだ。例えばこんなふうに。最近のニュースの言葉から…


「メタボリック・シンドローム」
 高円寺を中心に活動するドゥーム・メタルバンド。極低ディストーションボーカルとスロー&ヘヴィな陰鬱邪悪サウンドで悪魔カルト教団の宗教裁判などをテーマにした歌詞を歌い「暗黒世界の構築」を指標するが、全員何となく太っている


「ミュージアムウェディング 」
 大阪出身のゴシック系メロディックメタルバンド。上記の「メタボリック・シンドローム」と対照的に、神々しく清潔感あふれる「聖なるメタルハーモニー」を信条とし、小野正利のような美しい超ハイトーンクリアボイスとツインリードギターが特長。全ての曲のイントロはシンセで始まり、ギターソロの合間に教会の鐘の音が入るのが基本。全員カーリーのロングヘアで、胸にヒラヒラフリルのついたバロックシャツを着ていたりしてとっつきにくい感じだが、会って話すとバリバリ関西弁のフレンドリーな人達なのでホッとする。


「仮想的有能感」
 現役国立医大生と大手受験予備校講師の有志で結成されたインストルメンタル・プログレッシブロックグループ。知的で精密感あふれる音楽的構成美を追求する(本人談)。奇妙なリフやコード進行、あり得ない転調を繰り返すなど非常に難解だが、メンバー全員、世の中を見下しているのでそんな事はお構いなし。最近リリースした自主制作アルバム「脳下垂体巡礼紀行~第17惑星ふうの晩餐~」は、実はCDプレスのミスで3曲目の途中から音飛びして同じフレーズが10回くらいリピートしてしまうのだが、元々わけのわからない曲なので、メンバーを含めだれも気付いていない。


「ベジタブル・ディーゼル・フューエル 」
 漫画「To-Y」の世界から飛び出したようなガッシガシの'80sパンクスバンド。上半身裸で、生のセロリをかじりながら新宿のライブハウスを渡り歩き、ハード&バイオレンスなサウンドで「ファッション・パンクスはお断りだぜ!Fuck off!」と息巻くが全く売れていない。デビューが20年遅かったと思う。


「2アップ・3ダウン」
 東武沿線を地元とするHIPHOPユニット。詳しいことはわからないが、エミネムみたいなのを演っている。詳細は不明だが、リスペクトしたりサンプリングしたりスクラッチしたりマッシュアップしたりするのが主な活動内容らしい。メンバーが乗ってくる春日部ナンバーのキャディラックがとりあえずスゲェ恐い。


「雑貨書店」
 下北沢を中心に活動する、お洒落でちょっとユルいガーリィ・ポップ・デュオ。メンバーは2人とも20代半ばでグラフィックデザイナーと無印の店員。2人で都下の古民家を借りて住んでいる。
ライブのない休日は、縁側で紅茶を飲んだり、トイカメラを持ってお散歩写真をパチリと撮ったりしてマッタリ過ごすのが好き。


「流動資産一体担保型融資」
 日本橋兜町をホームグラウンドとする…えーと、…………………………………………………………………………………………………
ゴメンなさい無理です…。


 と、このような事を、新しい言葉を耳にした瞬間にイメージしてしまうのである。案外、世にある実際のバンド名も、こんなレベルで勢いで決まったりしているのではないだろうか。そういえば昔やってたバンドの名前も…

 ダメだ、ダサすぎてとても書けない。
  1. 2006/11/20(月) 10:33:21|
  2. etc.

痩せ我慢

 ある漫画にこんな場面があった。

 脇役の新人教師の回想シーン。
 その教師は高校時代フダ付きの不良だった。飲酒・喫煙を繰り返し「次は退学」という時、当時の担任教師にバーへ連れて行かれる。

 担任はこう言った。
  バーではカウンターの縁より奥に肘をつくな。
  背筋を伸ばせ。背中を丸めていると酔いが早い。
  バーでは絶対に酔い潰れてはいけない。たとえ酔っても、酔わないふりをしろ。

「何で酒を飲む店なのに酔っちゃいけないんだよ」

バーは「痩せ我慢」を学ぶ場所だからだ。 
大人に成るというのはそういう事だ。

…そして担任は最後にこう言って笑った。
 お前らみたいにみんなで安酒をガブガブ飲んでも、
 大人にはなれないぞ。

 
 この話、何かに似ているなと思った。

「痩せ我慢」。例えば単車に乗るというのはまさにそれではないだろうか。

 バーに暗黙のルールがあるように、単車に乗るにも色々なルールがある。交通法規、チームや仲間の掟、家族との約束事等…。
 自分の場合、長く乗っているうちに何となくだが「自分ルール」が決まってきたように思う。何のためにあるルールかというと、

●まわりに迷惑をかけないため
 社会の一員として交通社会における意識向上ならびに自動二輪車の社会的地位向上に貢献すべくいっそうの規律遵守ヲモッテコレヲ乗車セシメントス

●安全を守るため
 リスクの高い自動二輪車の事故による社会的損失を最低限にくいとめるとともに財産を保護し健全な社会生活の維持に率先してつとめ毎日きちんと反省します

 …なんて言うともっともらしいが、実はそうじゃない。もちろんそれは大前提として自覚しなければならないのは確かだが、改めてこんな所でそれを唱える立場でいられるほど聖人君子のごとき走りをしてるわけじゃなし(笑)。
じゃあ何のためかというと、

 カッコよく走りたいから。もっと言えば、

「自分に酔いたいから」
 これに尽きる。いままで路上で遭遇したり、知り合ってきたカッコイイ単車乗りには共通点があった。それは「大胆さ」と「節度」のバランスに優れていること。「おいおいそこまでやるか」というようなとんでもない走りをする反面、「これだけはやる。これだけはしない」というその人なりの規律があるように見えた。そういう人達の行動を取り入れる事で出来上がる「理想の単車乗り像」を演じて自己満足しているのである。おめでたいのも大概にしろ、という感じだがなあにかまうものか。
例えば…

●暑い日でも長袖を着る
 素肌で転倒すると危険だからというのはもちろんだが、ある程度の距離を走る場合は暑い日でも長袖で乗ったほうが最終的には疲労が少ない。つまり「暑い日に長袖→走るために乗っている→本物の単車乗り→そんな自分が好き」という自己陶酔の図式がここにある。

●抜かせてくれた他車には手で挨拶する
 そんなの普通だろ、と言うなかれ。実際にこれをやってる人、ホントに少ない。
「手で挨拶→紳士→英国→ジェームス・ボンド→ハードボイルド→フッ…」

●すり抜けで車列を縫う時にいちいちウインカーを出す
 だいいちスリヌケ自体ダメだろと言われればそれまでだが、そこはまあ勘弁してもらうとして、自らハイリスクな走り方をしているという自覚と、周囲への意志表示のため、ちょっと面倒だがやっている。走りのリズムをとるきっかけにもなったりする。と、言うともっともらしいのだが、本当の理由は…
 ウインカーが好きなんだよね…。変だと思われるかも知れないが。
 Kawasakiの歴代フラッグシップマシン特集のVTRに、GPZ900RNinjaが第三京浜を疾走するシーンがあるのだが、いちいちウインカーを出してレーンチェンジしていて、それが何故かカッコよかった。いい男はただ歩いてるだけでもカッコイイ、のと一緒か。

●停止線できちんと停まり、信号が青になるまでフライングしない
 ビッグスクーターなんかに多いのが、横断歩道を踏むほど前に出て停まり、交差信号が赤になったくらいからダラダラ発進。ヘタするとクルマでもこういうのがいる。停止線くらいキチンと停まろうよ子供じゃないんだから。こういう人達は停止線や信号を守っていられないほど走りがトロいのだろうか?
 キッチリ停止線で停まり、信号がかわるまで腕なんか組んだりして整然と待つ。剣道だって、開始線の位置について、主審が「はじめ!」と言うまでは「蹲踞(そんきょ)」といって相手と剣先を合わせたまま腰を下ろした状態で待つのだ。
「停止線で停まり青まで待つ→武士道→日本に生まれてよかった」

●歩道は降りて押す
 当たり前だろ!
 いやそれはそうなのだが、これも本当に誰もやってない。勤め先で単車を停める場所にアクセスするのに歩道を通らなくてはならず、自分は降りて押している。ちなみに乾燥重量220Kg以上あるリッター車である。だが後からやってくる人で、エンジンを切って押してる人など皆無。しかもほとんどがスクーター。ただでさえ乗り物乗ってラクしてるんだから歩道くらい押しなさいと言いたい。これも今となっては単なる痩せ我慢なのか?何かおかしくないか?


 ほかにも色々あるが、ハッキリいって全部面倒くさいし、やらないほうがラク。もちろんこんな事やってみた所で、カッコイイと思っているのは自分だけだろう。むしろ「バカじゃなかろうか」という感じである。
 別に守ったからエライという事じゃないし、いつも全部できてるわけじゃない。ただ、できなかった時には「さっきの俺、ダサかったな」と、できた時には「むむ、なかなかいいぞ」と自己陶酔。それ以上でもそれ以下でもない。

 所詮移動のための乗り物。ラクなほうがいいに決まってる。たしかにそれは正論かもしれないが、楽することだけを追求していっても、その先には何も無い。事実どんどんラクをし続けた結果、その「何も無い」状態に限り無く近付きつつあるのが今の日本の風潮だろう。
 「楽」「楽しい」は金で買える。そして楽した分だけ、楽しさを享受した分だけ必ず何かがスポイルされて、身体や心にぽっかりと穴が空く。

 好きだから乗る。カッコイイから乗る。
 夏は暑く、冬は寒い。転べば痛いし死ぬかもしれない。エンジン切れば重たいし、湯水のように金もかかる。こんな物、好きでなきゃ乗ってられない。

 「好きでいること」「カッコよくなること」は金だけでは買えない。そこに何かしら「考える」「行動する」など自分でエネルギーを注いでいかなければならない。面倒だし、時には苦痛をも伴う。しかしその結果はかならず自分を満たす糧になる。もっと単車が、そして自分が好きになれる。
バーで背筋をのばして酒を嗜む大人のように、単車に乗りつづける大人でいられたら、ちょっとカッコイイじゃないか。

そう信じて、今日もちょっとだけ痩せ我慢。
  1. 2006/11/09(木) 12:36:26|
  2. 単車

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 凛がいなくなって1年になる。

 数年前、転職したてだった今の会社の近くの広い鋪道に、濃い銀色をした猫がいるのを見つけた。正確には茶色がかった銀鼠色で、長い尻尾にうっすらトラ縞が入っていた。
 メス猫で、だいぶ年老いているらしく痩せていて、しゃがむと後ろ足の骨の形がわかるほどぜい肉が落ちていたが、顔だちは端正で、頬の毛はふっくらしていた。所々に小さなキズがあったが毛並みも奇麗で、歩く姿勢や表情も毅然としていて不思議とみじめさを感じさせない凛とした佇まいをしていた。
 だから私は彼女を「凛(りん)」と勝手に名付けた。

 最初のうちは「こちらが近寄っても逃げない」という程度だったが、日に日に懐き、目があうと寄ってくるようになった。凛の傍にしゃがむと、額を私の膝に擦り付けて自分のにおいをつけ、身体を寄せてそこに座り込んだ。あごの下や腹をさするとゴロゴロと咽をならして目を細めた。
 だがただのトロい老野良猫ではなかった。一度だけ凛が激怒するのを見た事がある。
 歩道の手すりに繋がれた犬が、通りかかった凛に吠えた。芝犬くらいの小型の犬だったが、それでも凛の2倍の大きさである。さすがに逃げるだろうと見ていると、凛は逃げるどころか全身の毛を逆立て、「シャアーッ!」と叫びながら犬に飛びかかった。「即ギレ」である。ちょうど飼い主が来たのでさすがに放っておけず止めに入った。ババアのくせに無茶するなよ…恐い恐い。

 仕事に行き詰まったり、辛い時には、会社を出て凛に会いに行った。凛はいつもそこにいた。凛を撫でていると気持ちが落ち着いた。

 痩せた身体に似合わずどっしりと構え、必要以上に人に媚びず、ゆったりと、しかし内に秘めた野生を失う事なく、気高く自分の時間を生きている。
 もはや私にとって凛はただのかわいい野良猫ではなかった。
 凛のようになりたいと思った。

 ある年の春から、凛の様子が少し変わった。
 凛が会社のビルの1階にあるコンビニの前に現れるようになったのだ。
 何かの事情で餌の供給状態が悪くなり、ここに来るようになったのだろう。コンビニの前に座り、道行く人に撫でられ、時々ゴハンのおこぼれを貰っていた。店の前には誰からとも無く猫缶が置かれた。

 ある日、凛をかまって水を飲ませていたら、近所に住むお婆さんが声をかけてきた。

「お水もらってるのかい?よかったねえお前は、みんなに良くしてもらって」

 聞けば凛は近所の飼い猫なのだという。飼い主は、コンビニに来ない時にいつも座っている場所にある家だ。当然、ちゃんと可愛らしい本名もあった。だが病気になったのにどうしても薬を飲まないので、家に入れられなくなったらしく外飼いになったという話だった。おそらく家の中に他の猫もいるからではないだろうか。 家の前にある凛の指定席にいつも置かれている猫缶は飼い主さんによる物だろう。

 そういえば、凛はいつも誰かを待っている様子だった。きっと飼い主を毎日待っていたのだろう。事情があるとはいえ、その事を思うと少し切ない気持ちになった。

 「この子はね、ヒトにしてみたら100才過ぎのおばあさん猫なんだよ」
 驚いた。とてもそうは見えない。放っておいても200才くらいまでは生きそうな感じである。
 知れば知るほど、凛を他人とは思えなくなっていった。フィルムカメラを持って行き、写真をたくさん撮った。ひどく腹を空かせている時は餌を与えた。


 だんだん肌寒くなってきた初秋の夜。
 いつもの場所に座っていた凛が私を見つけると、にゃあにゃあといつになく甘えた声を出しながら寄ってきた。普段と少し様子が違う。
 見ると右目の脇にひっかきキズがあり、血の固まりがついている。両目は目やにだらけである。落ち着かない様子で額や脇腹を私の足にしきりに擦り付けている。可哀想に、喧嘩に負けたのだろう。(というか、メス猫って喧嘩するのか?)私はその場に胡座をかき、組んだ足の上に凛をのせて、眠ってしまうまで撫で続けた。

 その日以来、凛は涙と鼻水が止まらなくなってしまった。可哀想だったが、病院に連れて行くとしたら、それは飼い主の役目だろう。もとより薬を飲まないと言うのだから施しようがないのかもしれないが。


 凛と最後に会ったのは、祭日がらみで2連休になる前の晩だった。いつもならコンビニの前か家の前にいるのだが、その日は何故か会社のビルのエントランスの中にいた。

 私に会いに来たのだろうか…いやまさか。

 たまたま誰かがガラスドアを開けた時に入ってしまったのだろう。
しばらくのあいだ凛を撫でてから、猫嫌いの人に通報されたりするとマズいので、ガラスドアの外に出した。外とはいえ、屋根とフェンスに囲われて奥まった場所である。ある程度風雨はしのげるし、ほとぼりがさめれば帰っていくだろう。そうして私は凛と別れた。

 連休が明けて出社すると、凛の姿はなかった。
思えば半野良、気まぐれにどこかへ足を延ばしても不思議はないだろうと軽く考えていた。
 しかし翌日、翌々日になっても凛は現れなった。

 飼い主の家に、凛の本名で迷い猫の貼紙が出されていた。

 私は思った。
 きっと猫の神様のところに、長生きのゴホウビをもらいに呼ばれて行ったのだろう、遠い、遠い所へ。
 毎日遊んで寝ていただけじゃないもんな。世間知らずの犬に世の中の仕組みを教えた。迷える青年の心を救った。おばあさんになっても独りで毎日を誇り高く生きた。

「死んだだけだろ」といってしまえば実も蓋もないがそのとおりだろう。死期を悟り自ら姿をくらました、という事実があるだけだ。だが、凛を失った喪失感は想像をはるかに超えていた。思いがけずぽっかりと空いてしまった胸の穴を埋めるには、そうやって「凛は幸せになりに行った」というふうに都合よく空想するしか方法がなかったのだ。

 想像する。
 毎日が春のような暖かい日溜まりの陽気で、
 地面は見渡すかぎり一面のフカフカ毛布で、
 おいしいゴハンがたくさんあって、
 友達がたくさんいて…
 凛は、そういう所に連れて行ってもらったに違いない。
 というか、連れて行ってあげてください、猫の神様。

 
 じゃあな、凛。

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  1. 2006/11/01(水) 00:29:24|
  2. etc.

異邦人

 定期的に出向しに行く広告代理店へ向かう途中、青山界隈を歩いていてふと目にとまった、ある女の姿。

 すっと通った鼻筋、雪のように白い肌。
 折れそうに細いスリムな体躯にメリハリを与える肩のライン。
 歳の頃は28位、いや35、もしかすると黒木瞳ばりに若作りの40過ぎかもしれない。
 そして何より、どことなく「東側」をイメージさせる陰のある雰囲気…

 完璧だった。

 どうしてもその彼女を放っておけず、しばし見つめていた。
 だが声をかける事はできなかった…
 いや、出来たのかもしれないが敢えてそれはしなかった。そのかわり、彼女の名前はいったいどんなだろうかと、とりとめもなく思いをめぐらせた。

 そのとき突然、10数年以上昔のとあるエピソードが走馬灯のごとく蘇ったのだ。


 当時美術大学の学生だった私は、髪を長く伸ばしていたのだが(といっても肩にかかるようなロングではないが)課題制作の時に前髪が邪魔で鬱陶しいのを何とかしたいと思っていたら、同級生の女の子が便利な物を貸してくれた。プラスチック製で、ちょうどヘッドフォンからスピーカーを取り去ったようなアーチ状の髪留めである。
 私はいたくそれが気に入り、彼女にその髪留めの正しい名前と入手方法を尋ねた。どこでも売ってるけど、立川の駅ビルにある雑貨屋で買ったのよあたし、とセーラムライトメンソールにマッチで火を点けながら彼女は言った。

 授業が終わると早速単車で立川駅へ向かった。
 教えてもらった店は、輸入雑貨や小物と低価格のアクセサリーを売る店だった。
 少し探してみたが、目当ての物がなかなか見つけられなかった。あたりを見回すと、客のほとんどが若い女性。そんな所で一人フルフェイスヘルメットをかかえて挙動不審気味にうろつくのも気恥ずかしかったので、近くで品出しをしていた店員に聞いてみる事にした。当時の私と同じような年頃の女の子の店員だった。

「何かお探しですか?」
「あのすいません、えと、髪を留める、んーと何だっけ…あ、そうだ、

ナ タ ー シ ャ ありますか」

「えっ…?」

 一瞬キョトンとしていた女性店員が、時間の経過とともに腹筋と口の両はじに力をこめて、何かを必死に堪え始めたのを私は見のがさなかった。
「こ、こちらに…ございます…ので」
と踵をかえして売り場を案内してくれた女性店員の肩は小刻みに震えていた。

 そうして私は無事に、その機能的でスタイリッシュな革命的髪留め「カチューシャ」を手に入れる事が出来たのである。

 ナターシャ…いったい何時そんな唐突な名前が頭の引き出しに紛れ込んだのだろうか? 若さ故の過ちか、カチューシャと語感が似ているというだけで思いがけず公の場におどり出てしまった謎の女の名前ナターシャ…




 そうだ、ナターシャだ…
 目の前に佇むその女の姿と、10数年の時を経て記憶の糸に導かれ甦った「ナターシャ」の名が渾然一体となって、ひとつの確かな存在として形づくられていく。それはあたかも神話が現実になったかのような静謐かつ神々しさに満ちたイメージの具現化だった。
 ナターシャ。彼女にこそ、その名は相応しい。根拠はないがそれでいいのだ、多分。

 また会おう、街角に佇む哀愁の異邦人ナターシャよ。


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ナターシャ 近影
  1. 2006/10/24(火) 01:21:56|
  2. etc.

ナイト・バーズ

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 ウイークデイ、22:30。
いつもより少し早くオフィスから解放された僕は、気まぐれに友人へTEL。

「たまには、走(い)かないか」
「いいネ、ちょうど独りで走ってた所さ」

 ジャケットの上からベルスタッフのコートを羽織り、オフィスの近くに停めてあるKawasakiに火を入れる。

 友人ハカイダー氏と合流。彼もまた、摩天楼の狭間にロマンを求めて夜の都心をさすらう孤高のナイスミドルだ。


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 彼の今夜の相棒は、21世紀のテクノチョッパー・ヤマハXV1700ロードスターウォーリア。必要以上にレーシングテクノロジーが随所にフィードバックされたプログレッシヴでちょっとお茶目なアメリカンクルーザーだ。ブラックにパープルのフレアーという、まさに夜の街を流すためにあるようなカラーリングは、数ある氏の愛車の中から今宵、選ばれるにふさわしいダークな装い。あまりにレアすぎて未だかつて氏の乗るこの1台しか見た事がないマシンである。
 僕のパートナーはブルーのカワサキZX-10。Devilの集合管から前時代的な炸裂音と刺激臭をまき散らして9万Kmの距離を生き長らえた18年前の世界最速ランナーだ。時々ネジや冷却水までまき散らすので油断ならない。だがソレがいい。

 ハカイダー氏先行で、軽く車列を縫って走る。決して飛ばさないが、それでいて遅くはない。何も足さない、何も引かない。心に翼を持った大人たちだけに許される
ナ イ ト レ ス ・ シ テ ィ T O K Y O クルージング。

 外苑から青山界隈の道をランダムにつなげて遠回り。飯倉のランボルギーニ・ディーラーを過ぎ、六本木へ。

 ヒルズの脇をかすめ、坂の途中の交差点の角にあるスターバックスに単車を停める。
 眠らない街・六本木のオアシスよろしく、日付けの変わるこの時間でも憩いを求める男女で賑わうこのカフェ。空虚に煌めく乾いた摩天楼の街を彷徨い辿り着いた束の間のエトランジェたち。

 「んー、そんでツタヤとくっついてるからー、本とかパラパラやってー、んでコーヒー買う人はこっちでー、CDは2階ー」

 ハカイダー氏はそんな情景にまったくお構い無しに、初めて来た僕にここでの過ごし方を説明してくれる。ありがとうハカイダー氏…(笑)。何だか初めて上京した修学旅行生の気持ちになってそれを聞く僕。
 トールサイズのエスプレッソを持ってオープンテーブルに出る。

 ここに集まる女性は9割が「ヴィダル・サスーン」、残りが「STUDIO VOICE読者」然としており、男性は6割が「LEON読者」、残りが「岩井俊二映画のエキストラ」と言っていい。そんな「六本木の今」な彼等が行き交う中、

チョイ悪オヤジの真打ち・ハカイダー氏との日常を忘れた他愛も無い知的エスプリトーク※で更けて行く夜。

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 ハカイダ-氏と別れ麻布トンネルを抜けると、夢と現実の汽水域のようなあの街は、もう手の届かない遥か彼方へと遠ざかり、喧噪の残響ももはや聞こえない。愛機ZX-10の吠えるような排気音がうるさすぎたのだ。さらば街の灯よ…。





※知的エスプリトーク
「こういう場所には、例の霧島ローランドとかが、DUCATIムルティストラーダ等に乗って、したり顔で表れるに決まっている。来たらその単車に『TEAM国武舞』『弥生』等のイカすステッカー貼っちゃおうぜ」、とかそいいう会話
  1. 2006/10/20(金) 00:11:54|
  2. 単車
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